なぜ子供が論理的思考を構築する必要性があるのか?
こんにちわ。
佐賀県佐賀市呉服元町で「ICT教育×eスポーツ×遊び場」を運営しているDigitalStudyです。
子供向けプログラミング+パソコン教室や大人向けパソコン教室など各種デジタル教育の教室を運営しています。
プログラミング教室運営者がよく勧誘のキャッチコピーとして「論理的思考を養う」とありますが、論理的思考って結局何?と思われるが多いと思います。
こちら実際に発生したトラブル例も踏まえながら実生活にどう影響するか?というご紹介をしていきます。
論理的思考とは何か?
論理的思考の例え話として「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざの例が挙げられることがあります。
以下は江戸時代の話です。
・風が吹く
↓
・土埃がまう
↓
・土埃が目に入って失明する人が増える
↓
・失明すると仕事が三味線を弾く仕事になる
↓
・三味線の需要が増え、三味線の材料である猫の皮が必要になる為、猫の数が減る
↓
・猫が減るとねずみが増える
↓
・ねずみが増えると風呂屋の桶がかじられるので、桶屋が儲かる
このような経緯を経て「風が吹く=桶屋が儲かる」が成立するということわざです。
もちろんこの論理は無茶苦茶ですし、何の確証性もないずさんなルートではありますが、この話が大事な事は「仮説を立てて道筋を示し、後に検証する」という行為を明確にするという所です。
漠然と何の理論もない状態で「風が吹く=桶屋が儲かる」では、儲かるというゴールに向かっての行動がちくはぐになりますし、「三味線の需要が増えても猫が減らなかった」とすれば、何が原因で失敗したのか?という検証ができなくなります。
仏教の根本的な考えに「因果」というものがありますが、どんな結果にも、必ず、原因がある、原因なしに起きる結果は、万に一つ億に一つ絶対にないというものがあります。
こちらも論理的思考に繋がる話で、成功、失敗に対して「なぜ?」を考える力が大切なんです。
言葉では簡単に言えますが、これが意識できていると、普段自分が生活している範囲で色んな疑問が湧いてきます。
・なぜ駅の改札は右にあるのか?
・なぜコンビニでタバコを買うと20歳以上ボタンを押さなければならないのか?
・なぜセルフレジが今増えているのか?
・なぜ車で世界は左ハンドルなのに日本は右ハンドルなのか?
なぜ?が生まれると、その答えを求めて調べる力がついていき、色んな知識が増えていきます。
人間の感情という不確定要素
職業柄様々なクレームを対応して来ましたが、一番難しいのは人間の感情だと思います。
その感情も因果と同じく原因と結果が必ず存在すると私は思います。
「気まぐれ」という現象は偶発的なものではなく、何かしらの情報の基づいた行動です。
ある日突然「カレーが食べたい」と気まぐれに思ったとしても、その数日前にカレーの映像を見ていたり、逆にカレーを何日も食べてなかったりなど、様々な予備アクションが重なっての結果として、ある日突然カレーが食べたいと思ったトリガーになったという事です。
しかしながら、カレーが食べたいと思った人間が「なぜカレーが食べたいと思ったのか?」を意識していない限り、全くの気まぐれという突然神が舞い降りたのごとくそう思った。と解釈しがちです。
カレー程度の話であればそれでいいのですが、「失敗」の経験に関してはこれでは同じ過ちを繰り返します。
なぜ失敗したのか?
なぜ誤認したのか?
なぜ気が緩んだのか?
これらを分析できる論理的思考がなければ、成長が止まってしまいかねません。
ですが、自身の失敗を振り返る自己反省は、自身の嫌な部分を何度も見直す為に精神的にキツいものもあります。
それに耐えうる心を持つ為にも、日頃から自己分析を行う癖が求められると思います。
発達障がいにおいてはこの思考が一番大事
発達障がいの問題点の一つとして、思い込みと視野の狭さが挙げられます。
20万の冷蔵庫と1万の冷蔵庫。
明らかな価格差がありますので、性能差ももちろんあります。
同じ冷蔵庫である為発達障がい者からすると、この値段の違いが性能の違いに直結しません。
ですので、1万円の冷蔵庫に20万の機能を求めて1万の冷蔵庫を壊してしまいます。
その際はまず「冷蔵庫は価格差によって性能が違う事」を教える必要性が出てきます。
ですが、20万のテレビと1万のテレビを次の例題に出すと、同じ失敗を繰り返します。
それは、冷蔵庫の事はわかったが、今度はテレビだから…という理屈になるわけですね。
ですので、「冷蔵庫は」という主語ではなく「物は」という主語に置き換えて説明する必要が出てきます。
これにより理解が深まるという形です。
私は人が失敗した時、過ちをおかした際は「なぜそうなったのですか?」という真意をまず問いただします。
人の行動には理由があり、その理由は本人しかわからない。
こちらが「こうだろう」と深読みしても、結果は180度真逆の意味かもしれない。
それを念頭に置いてます。
それにより、その人が同じ過ちを繰り返さないよう原因を追究し、対策を取るという事を心掛けています。
一方的に自分の意見を感情的に発言し、相手の意図を曲解し、その曲解した内容で正義を語るのはちょっと違うなと思います。
感情が先走って結果ゴールに向かえない
人間として感情は切り崩せません。
ですが、そればかりに囚われてしまうと大事なものを見失いがちです。
あるお店の駐車場のトラブルの話ですが、お店の駐車場に稀に暴走族のような車両が不特定多数で出入りする事があり、また、駐車場内でのアイドリングが原因で騒音問題が発生します。
被害者の方は夫婦で第一子が生まれる直前です。
主人は早朝の仕事、婦人は妊娠も兼ね合って精神的に不安定という状態で騒音に悩まされるという状況です。
これに対し主人がお店側に対策を求めるわけです。
ここでまず大前提としますが、単純に法律に照らし合わせて最低限のルールとして、まず騒音を出している加害者は店ではなく店の利用者です。
また、騒音の頻度も発生する日もあればしない日もある。
一回だけの日もあれば、長時間にわたる日もあるという形でランダム性が非常に高い状況です。
この場合、法律としては店側に配慮は求めるものの、法的な規制、過失は認められません。
また、店舗は住宅街にあり、被害者以外からは苦情が一切出ていないという状況です。
店側は被害者の要望を聞き、最初に防音壁を設置します。
駐車場内に騒音被害軽減の為の注意喚起看板を設置します。
その次に1時間に一回の見回りを実施します。
最後に防犯カメラを設置し、無断駐車等の取り締まりを行います。
これまでに数百万の対策投資を行います。
しかしながら被害者は「騒音被害0(ゼロ)」を求めた為、100が60に減ったとしても納得しないという状況です。
また、設備対策では限界もあり、かつ1時間に一回の見回りでは、その見回りと見回りの間に騒音が発生する事もありますので、これを対策するには常時警備員を設置する以外に対策のしようがないという形です。
最終的には被害者側の感情が抑えきれず、店側の施設内の話し合いの場で被害者が机をたたき割ってしまい、暴力で強要したという形で話し合いが打ち切られました。
被害者側の婦人が精神的に追い込まれている事、毎朝早朝の仕事があるにも関わらず、安眠を邪魔されてしまい、主人も精神的に参ってしまっている事を考えると、この結果で良かったのかなぁと私は思います。
被害者側はお店を加害者として正義の名のもとに断罪する為、100か0かを求める結果となっていましたが、そもそも加害者は騒音の原因となっている利用者であり、管理責任を求める範囲を超えてしまっています。
私だったらまず自らの家の騒音が聞こえる側の窓を二重サッシや防音壁に改造して防音性を高め、寝るときの際に耳栓をして寝ます。
防音対策の費用を店側に請求するかはその時の交渉次第だと思いますが、何百万もかけて防音対策を店側もしていますので、数十万で解決できるならお互いに良かったと思います。
結果として被害者が求める100か0かは得られませんでしたし、婦人の被害も収まってない、今後新たな問題が発生したとしても、次の対策は求められないという結果でしかありませんでした。
なぜ被害者は合理的な結果を得られなかったのか?というと、「自分は被害者だから、自分側で何かしらの対策するのはおかしい」という考えに固執してしまった所にあると思います。
論理的思考はピンチの時ほど役に立つ
緊急事態において人はパニックを起こしがちです。
特に場慣れしていない人はトラブルが発生した際に思考が全部吹っ飛び硬直してしまう現象が発生します。
自分が被害にあった場合でも、文句を言いたいだけなのか?補償して欲しいのか?謝罪が欲しいのか?反省して次に生かして欲しいのか?
ここら辺がぐちゃぐちゃになりがちで結果何が言いたかったのか?何が伝わったのか?が曖昧になります。
何にせよ自身に起きた事は貴重な体験の財産ですので、その財産を最大限に生かすことが重要かと思います。
論理的思考とはプログラミングの技術ではなく生きていく為の技術
論理的思考はプログラミングに特化した技術だと思われがちではありますが、普段の生活に非常に密着した技術です。
これらを自身で見出すことは非常に困難なため、仕組みや環境、仲間と共に育むことが成長のカギになると思います。